2017年9月29日金曜日

小菅さんぽ  東京拘置所周辺をひと回り~!   9月30日は塀の中へ入れる日です。


前回お伝えした昭和の時代にタイムスリップしちゃう駄菓子屋さん
テレビでCMされているKOSUGE~にあります。


小菅ですぐ浮かぶのは東京拘置所ではないでしょうか。
駄菓子屋さんと目の鼻の先にあります。


駄菓子屋さんへ行く足で小菅をぶらりさんぽしました。

今日は小菅さんぽをお伝えします。





 
いとうはしから見た東京拘置所
 
千代田線から北千住と綾瀬の間のところ位置します。
 
 

 
東京拘置所と煉瓦工場
 
我が国初の様式煉瓦製造所が設立され、ここで作られた煉瓦は
銀座や丸の内、霞が関にある煉瓦建築の旧法務省本館、
旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に
建造された海上要塞の第二海堡等に使用されました。
明治11年に内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げて、
同地に獄舎を建て、「小菅監獄」と命名。のちにの東京拘置所。
 

 
こちら側が面会の方の入口です。
小菅稲荷神社から見た拘置所
 


小菅稲荷神社
 
小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、
昭和に入り、現在の地に移されたと伝えられています。
稲荷神社の「使い」狐がご神体の両脇を固めています。
 狐が穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の
使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津(みけつ)神」で
あったことから、 ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され、
誤って「三狐神」と書かれたためといわれています。
 そして、狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害獣を食べて子狐を養う。)が
古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、
 狐が田の神の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる「神のお使い」として
人々に定まっていきます。 日本の各地に「神の使い」狐の伝説が残されています。

 
旧小菅御殿石燈籠

小菅御殿(または千住御殿と称する人もある)は、約350年前、三代将軍家光公が、
この地に治山治水農政に優れた関東郡代伊奈半左衛門の下屋敷(土地約10万坪)
として与えたものであり 奥州路の諸大名が参府する際の送迎用として、また、
将軍の放鷹や鷹狩の御膳所、九代将軍家重公御世継時代の養生所等に使われた。
 その郡代の勲功は上下に讃えられ代々俸勤200年に及んだが、
寛政4年(1792年)第10代伊奈半左衛門忠尊のとき家中不行届で蟄居断絶、
領地も没収となり、屋敷も取り払われ天領となった。
その後明治12年(1879年)に約7万坪を利用して小菅監獄(東京集治監)が
建てられ、以後小菅刑務所を経て、昭和46年(1971年)から
東京拘置所敷地として使用されている。
ここに置かれている桜御影石の燈籠等は江戸時代初期の作とされ
小菅御殿当時を偶はせ、 世の栄枯盛衰の中で当地に静かに立ちつづけた
貴重な歴史資料で当所構内に保存されていたが一般の方々に
供覧に便ならしめるため、この場所に移した。


千代田線から見える拘置所
 
 
拘置所の周りをぐるっと1週して、綾瀬川を渡り・・・・・
 

小菅神社
 
 
拝殿
 
この姿を見て、伊勢神宮を思い出した。
それはそうなのでした・・・・

 
1869(明治2)年、当地に小菅県が設置された際、県知事・河瀬秀治が
県下356カ町村の守護神として庁内(現・東京拘置所内)に伊勢の皇大神宮
勧請し県社としたことに始まる。
1872(明治5)年2月、小菅県は廃止され所管の葛飾郡72ヵ村等が
東京府に移管された。 当社は小菅村の鎮守だった田中稲荷神社の境内に遷され、
稲荷神社を摂社として新たに村の氏神として祀られた。
遷座以来小菅大神宮と称していたが、1909(明治42)年に小菅神社と改称している。
 
 
 
東京拘置所の周りのさんぽでした。
以前は高い塀がシンボルでもありました東京拘置所ですが、今は高い塀はありません。
 
明日は東京拘置所で矯正展が開催されます。
年に一度、塀の中へ入ることが出来ます。
もし、お時間あれば、矯正展に周辺のおさんぽをされてみてはいかがでしょう。
 
 
 
矯正展
 
日時:9月30日(土) 9:30-15:00
 
場所:東京拘置所
 
入場無料
 
ダンスボーカルユニットのW-inds.がゲスト出演。
 
 

 


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2017-09-10 Sat

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